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同一労働同一賃金の真実 [政治・社会]

安倍が同一労働同一賃金をいいだした。これは同じ仕事をすれば同じ賃金を支払うというもの。普通に考えると非正規の賃金を正規並に引き上げることのように受け取れが、真実はどうも全く逆のことを考えているようだ。今朝、NHKの解説委員が説明していた。

今、多くの企業は総人件費抑制で正規労働を契約社員、派遣社員という非正規労働に置き換えてきた。その結果、同じ仕事をしているのに大きな賃金格差が生じてしまった。だから、今度は正規の年功的賃金を見直して非正規の賃金水準に引き下げることで同一賃金にしようとしている。

年功的賃金も問題はあろう。しかし、子供が成長する50歳代にかけてどうしてもお金はかかる。今の非正規労働では普通に働き、家庭を持ち、家を建て、マイカーに乗る当たり前の人間らしい生き方が難しくなっている。こんなことが進行していけば日本は一億総活躍どこか一億総貧困化社会となるだけだろう。

戦争をできる国にするのか、これまでどおり平和な国でいくのか=集団的自衛権と個別的自衛権

安倍政権が集団的自衛権を禁じる憲法9条の解釈を勝手に変えようとしている。
集団的自衛権の議論はわかりにくいという人がいるが、わかりやすく言えば、戦争をできる国にするのか、それともこれまでどおり平和な国でいくのかという話である。

少々ながくなるがおつきあい願いたい。

まず、憲法9条をみてみよう。

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

第1項は戦争と武力の行使を放棄し、第2項ではそのためには戦力を持たず交戦権も否定する。どう読んでも戦争なんかできる規定ではないのだが、戦後の国会議論で「こんなことでは外国からの違法な侵害に対して国を守れないではないか」ということになり、第1項は自衛権まで否定していないのだという考え方が歴代自民党政権下で確定した。

ではその自衛権はどこまでなんだ、歯止めがなければならないということになり、自衛隊が出動できるのは①相手から武力攻撃を受けた時、②その行使は必要最小限、③保持する防衛力も最小限ということに落ち着いた。これは、イラク派遣などすれすれの議論があるが今日もなお政府の公式見解である。「専守防衛の3原則」とも呼ばれている。

つまり、戦後日本の防衛は一方でこの専守防衛、他方で日米安保をうまく結合させて、いわば日本の自衛隊が「盾」、米軍が「槍」の役割をそれぞれ担ってきたのである。さらに、核兵器の脅威に対しても日本は「核は持たず、つくらず、持ち込ませず」という原則をつくり、米国の核抑止力に依存(核の傘)してきた。

(続く)

さて、前置きが長くなったが、この専守防衛の考え方を国際的には個別的自衛権といっている。どこの国にでもある権利だと国連憲章はいう。これに対して、集団的自衛権は自国が攻撃されていなくても他国が攻撃された場合は共同で防衛できる権利だとされる。これも国連憲章が認めている。

しかしだ。この集団的自衛権という考え方は、日本が攻撃されていないにもかかわらず自衛隊が他国のために出動できることになってしまう。そうなれば、軍事費を増やし、武器の使用や輸出もできるように法律の改正も必要となり、同盟関係の米国と共同で世界中にでかけていって戦争することになってしまう。これはもうとても憲法9条の許容する範囲を超えてしまうのである。

そもそも戦争はすべて自衛が大義名分であって、侵略だといって戦争する国はない。
どちらが先に一発を打つかの違いであって、戦争が悲惨な殺戮戦であることに変わりはない。したがって、戦争は回避することこそ国土と国民の生命と財産を守る唯一の手段なのである。

そのためには、戦後歴代内閣が積み重ねてきた9条解釈の変更を許さず、他国に銃口を向けず、一人の自衛官も犠牲にしない、これまでどおりの平和な日本を維持するしか道はない。





組織というものの怖さ=映画ハンナ・アーレント [映画]

2013年12月30日

シアターキノでハンナ・アーレントを鑑賞した。

この映画は逃亡していたナチスの戦犯アイヒマンの裁判を傍聴したドイツ系ユダヤ人の哲学者ハンナ・アーレントを描いた作品。ナチズムを人類「最大の悪」とする戦後世界にあって、彼女はこのアイヒマンの証言を聞き「それは凡庸の悪にすぎない」と主張、批判にさらされる。

アイヒマンはユダヤ人を収容所へ移送する際の責任者だった。裁判で彼は「命令だからやった」「私は手を下していない」「義務感と良心を行ったり来たりした」「上に逆らっても何も変わらない」というような全く罪の意識を感じさせない証言に終始する。

これを聞いたアーレントは彼はどこにでもいる普通の悪だと考えるようになる。ナチズムを赦しているように受け止められたが、アーレントは「この凡庸の悪こそ根源的な悪なのだ」とやや哲学めいた自説を展開する。実はここにアーレントが考えるファシズムの真実があるということが次第に理解されるようになる。

彼女は「人間としての思考を停止させるのがファシズム」と再三強調する。そして人は信念が大事で、何事もよくよく考え抜かなければらないと力説する。

この映画は「組織というものの危うさ」を考えさせる映画でもある。今日もさまざまなところで「組織」の無責任さが露呈している。そうならないためにどうすればいいのか。気づいた時にはすでに手遅れということにもなりかねない。

アイヒマンの公判が実録で挿入され、法定での表情がリアルに映し出される。哲学を描いただけあって難解な映画だがお薦めである。
もう一度観なければならない。

オリバーストーン「もうひとつのアメリカ史」と大島渚「忘れられた皇軍」=問われる歴史認識 [映画]

2014年01月13日
ご覧になった方も多くいると思う。二つのドキュメンタリー番組を紹介したい。
まず、オリバーストーン監督の「もうひとつのアメリカ史」。オリバーストーンといえば自らの体験をもとにしたベトナム戦争を描いた「プラトーン」がよく知られている。つい最近は辺野古移設に反対してマイケルムーア監督などと声明を発表した社会派の映画監督である。

さて、この作品は第2次世界大戦前夜からオバマ大統領誕生までのアメリカ史を振り返る。冷戦下では「ソ連の脅威」、冷戦が終われば「テロの脅威」を大義名分に戦争を正当化、原爆投下から朝鮮戦争、キューバ危機、ベトナム戦争そして中東、イラク戦争へといずれも軍事大国として破壊と大量殺戮の繰り返しだったことを歴代大統領とその側近らの証言で綴っている。


おおよそ「自由と民主主義」を最も重んじるはずの国アメリカの顔とは全く正反対の「殺戮と抑圧」という「もうひとつのアメリカ」の顔が映し出される。しかも、興味深いのはよく知られた戦争の他にも、例えば1972年のチリのアジェンデ政権の反革命クーデターなどのように世界各国の内政に介入し、アメリカ式資本主義を押し付け、搾取と収奪続けてきたことも断罪している点である。また、広島・長崎の原爆投下は戦争犯罪と断定、関係者の証言を交え「必要なかった」と結論付けている。

もうひとつは、12日深夜日本テレビ系列で放映された大島渚監督の「忘れられた皇軍」である。旧日本軍に従軍し戦後復員した在日朝鮮人傷痍軍人会を取材したドキュメンタリー。彼らは両目失明、両足切断などの戦傷を負いながら、日本国籍でないため軍人恩給などの社会保障から排除される。

日本国内は東京オリンピック前夜で盛り上がるが一方で極貧生活を送りながら白装束姿で政府陳情や街頭行動を続ける姿を対比させる。最後に「日本人よ、これでいいのか」とのナレーションが脳裏に焼き付く。


今日、対中・対韓外交が行き詰まり、首相の靖国参拝で一層悪化する。秘密保護法を強行採決し集団的自衛権行使に突き進む。問われているのは、もう一つの歴史認識と確かな想像力である。

「もう一つのアメリカ史」はNHK・BS1が昨春放映したものを昨年暮れ録画しておいたもの。1回50分で10回シリーズ、長編である。再々放送はないようだが、DVDがでているらしい。一方「忘れられた皇軍」は19日日本テレビで再放送が予定されている。
1月14日、加筆
民主党の有田芳生議員によると、登場する李鶴来さんたちは今年89歳、サンフランシスコ講和で日本国籍を失い、恩給法の支給対象外となる。99年に最高裁が立法解決を促すが、いまだ進まず。要請書提出は安倍首相で29人目になる。
昔話ではない。


争点はやはり「脱原発」だった=都知事選 [政治・社会]

都知事選の最大の争点は脱原発だ、いや他にもある、ということがメディアでも候補者の間でも議論が続いていた。終わってみて、やはり重要な争点は脱原発だったことを納得させる動きがある。

とたんに安倍政権は再稼働を前提とし原発を「ベース電源」とする新しいエネルギー計画決定に動き出した。本当は昨年決める予定だった。都知事選で問題視され選挙に不利に作用することを避けるため先送りしてきた。もひとつは読売の社説が「東京都知事選、無責任『原発ゼロ』信任されず」と書いているように、終わってから原発問題が争点だったことを自ら認めていることだ。

NHKをはじめTV・新聞各社は明らかに選挙報道を「自粛」していた。さらに昨年から今年にかけて安倍首相自らメディア各社の幹部と会食を重ねていたことが「首相動静」欄で明らかになったが、いかに「脱原発」争点化の回避に腐心していたが分かる。

どう考えても都知事選の最大のニュースは元総理の2人が揃って「原発ゼロ」を熱く訴え続けたことだろう。二人は確かに高齢だしもう過去の人かもしれない。でも、小泉氏は安倍首相の「師匠」だし、細川氏は20年前に自民党の一党支配体制に終止符を打った政治家だ。この影響を最も恐れたのは安倍自民党であり原子力村だった。「都知事に脱原発知事が就くようなことにでもなったら原発推進は立ち行かなくなる」だから必死でメディア対策を講じたことが容易に推測される。

私はニュースで報道されないのでネット上のツイキャスで二人の街頭演説に聴き入った。二人は揃って過去原発の安全神話を信じてきたことを謝罪し、演説の大半に原発再稼働と自然再生エネルギーの重要性に費やした。街頭演説に集まる聴衆は他候補を圧倒していた。このツーショットがニュースで報道されれば選挙情勢は大きく変わっていただろう。

もうひとつ、脱原発候補が分裂選挙を余儀なくされたことも敗因としなければならない。脱原発を主張した細川氏と宇都宮氏の合計得票は原発推進の枡添氏に僅かに及ばないが、もし一本化していれば脱原発が争点化し相乗効果をつくりだし、おそらく勝っていたにちがいない。

山口、京都、石川などで知事選挙が続き来春は北海道知事選挙だ。安倍首相やメディアを悪くいっても何もはじまらない。自分たちの力のなさを教訓としたい。


五円玉に込められた反戦・平和と復興 [政治・社会]

「ご縁」にかけて自分の誕生年の硬貨を密かに持ち歩いている人も多いと思う。先日、元小学校教員の方からその五円硬貨に纏わる薀蓄(うんちく)を聴く機会があった。
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まず、写真をご覧いただきたい。これは昭和24年のもので描かれている図案が戦後日本の復興と反戦平和の願いを表しているというのだ。デザインしたのは当時大阪造幣局勤務の小柴利孝さんだそうだ。

まず、稲穂は農業、下半分の横線は海で水産業、真ん中の穴の周りのギザギザは歯車で工業だという。戦争でなにもかも失い空襲で焼け野原となった郷土をなんとか復興させようという思いを込めた。

なぜ、穴が開いたかというと、その前年に穴のあいていない5円玉が初めて発行されたが、硬貨の原材料である黄銅は実は兵器の再利用だったので次第に不足しその節約のためだったらしい。
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次に、裏側に「日本國」と製造年が刻んであり、そこに小さな「新芽」のような図案が描かれている。これはなかなか想像しにくいが、新しい日本、民主主義を伸ばしていく意味が込められているという。戦争放棄、二度と戦争はしない、つまりは反戦・平和ということになる。

因みに、昭和34年まで発行された五円玉は「五円」が楷書(今はゴシック)で「日本国」が「日本國」となっているなど珍しく、マニアの間では高いものは1000円前後の高値で取引されているという。ただ、昭和29~31年は発行されていない。

さて、この昭和34年は穴あき硬貨発行からちょうど10年後で東京オリンピックが開かれた年だ。敗戦から復興を成し遂げた日本の姿を世界に示すことができたが、さて、2020年7年後の東京オリンピックまでに震災復興、とりわけ原発事故はどこまで「収束」できるだろうか。ようやくはじまった燃料棒の取り出しに10年、廃炉に30~40年かかる。


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「あまちゃん」「半沢直樹」=ドラマと現実 [映画]

「あまちゃん」も「半沢直樹」も終わり、ぽっかり穴が開いたように寂しくなった。

「あまちゃん」は「潮騒のメモリー」をつい口ずさんでしまうほどはまってしまった。アキとゆいが津波で破壊された線路を明るい陽光がさすトンネルの先へ走り抜けるラストシーンは復興への明るい希望を想起させた。しかし、よくよく考えてみると現実は厳しい。東北の避難者数は29万人にも及び津波が襲った街並みは更地と化したままだ。福島第一原発の放射能汚染はとどまるところをしらない。

「半沢直樹」はドラマ史上に残る高視聴率で大人気となった。しかし、現実の会社組織であのような「倍返し」は可能だろうか。上役への対抗どころか、労働現場には低賃金で不安定雇用の非正規労働者が急増し、労働法無視のブラック企業が蔓延する。経営をチェックするはずの労働組合も日本は8割以上が未組織である。

ネガティブに考えすぎかもしれない。だからこそ人気ドラマに拍手を送り続けたのだろう。

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「ピースとハイライト」「風立ちぬ」 [映画]

このコーナーではおそらく初めてとなるが今夏に出会った音楽と映画を話題にしたい。


聴くまではJTのCMソングかと思ったぐらいである。「ピースとハイライト」サザンの新曲である。新聞のコラムとして書かれても全く違和感のない作詞である。桑田にしては珍しくメッセージ性を全面に打ち出したといえるだろう。


領土問題などをめぐる日米韓の対立を念頭においていることは容易に想像がつく。だけでなく、そうした外交上のつまづきが国際的な孤立へつながりやがて悲惨な戦争へつながった過去の苦い歴史に着目していることも想像する。


「都合のいい大義名分で争いを仕掛けて裸の王様が牛耳る世は・・・」
「狂気20世紀で懲りたはずでしょう?」
「悲し過去も愚かな行為も人間は何故に忘れてしまう?」


この曲にはネットで批判的な主張もあるようだが、サザンには相当昔、沖縄の過去と現状を歌った「平和の琉歌」という曲もある。


あいかわらず歌詞はよく聞き取れないが、軽快なリズム平和と愛を唄う桑田の熱い思いに触れてほしい。




さて、時を同じくして宮崎駿の「風立ちぬ」を鑑賞した。いつもながら難解なアニメである。であるがゆえに人それぞれに違った想像をかきたてる時としてファンタジックな宮崎アニメの優れた点かもしれない。まだ鑑賞していない人は公式HPなどをご覧いただきたい。私はこの映画でもサザンの曲と同様、何もかも失った戦争の愚かさを感じたのである。


飛行機はそもそも人々の夢をのせて大空を飛び回るもの。しかし、日本もイタリアも戦争へ突入していく時代、飛行機は設計者の意図とは全く別の「兵器」となり殺戮の道具とならざるを得なかった。


スタジオジブリの月刊誌「熱風」7月号は「憲法改正」を特集、宮崎監督は「憲法変えるなどもってのほか」鈴木プロデューサーは「9条を世界に伝えよう」と発信した。宮崎アニメにはかならずといっていいほど大空があり、そして森や水といった自然環境が美しく描かれる。そして人間はその自然の一部なのだとされる。


平和がいかに大切なものか「国民の無関心」こそ最大の問題だ(前出「憲法特集」)と危機感を募らせた監督最後の作品を見逃してはならない。




遠のく帰村=飯舘村の放射線量 [政治・社会]

8月下旬、南相馬市街地から県道12号線を福島に向かう。深い森の中を曲がりくねったやや登り道を30分ほど走ると飯舘村のほぼ中心地点に着く。車の往来はあるものの、周りの田畑は雑草が伸び放題、ここから左折、役場に向かう。

役場本庁舎は現在も当番制で数人が午前10時から午後4時まで常駐するだけである。あたりはひっそりしている。隣接する福島市の飯野支所の中に「飯舘村役場飯野出張所」として間借りし住民対応をしている。

2年半ぶりに見た飯舘村役場前の放射線量計は0.62μSv/hを指していた。2011年11月に来た時は2.59μSv/hだったので、相当程度線量は低下していることになる。

村は当初2年間で除染を進め、健康で安心して暮らすことができるよう年間線量を1mSv/h以下に下げる「帰村計画」を決定していた。この日も除染は街のあちらこちらでゼネコンJVが精力的に作業を進めていた。

しかし、飯舘村は依然として「居住制限区域」に指定され、約6000人の村民は震災から2年半を経た今も自宅での生活ができない状態にある。

村が目指す「1mSv/h以下」は時間あたりに換算すると0.19μSv/h以下という計算になる。算式は次のとおりである。

1mSv/h÷365日÷14.4時間(屋外分を考慮・・・文科省の基準)×1000

しかし、これでも福島第1原発事故前の線量に比べると一桁値が高い。

飯舘村役場前の記録は見当たらないが、福島市内の事故前の線量は0.04μSv/h、隣の南相馬市でも0.05μSv/h(いずれも2011年7月3日付朝日新聞)という線量であり、こうしたいわば平常値には程遠い現実が立ちはだかっている。

どのくらいたてば平常値までさがるのか。降り注いだセシウム137は半減期が30年である。このままだと単純に計算すると30年たっても、まだ0.3μSv/h程度にしか低下しない。

当然除染が進めばかなり短縮される。それでも村が目指す年1ミリシーベルトさえまだまだ年月を要するのである。

まさに事故は収束していない。

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アベノミクスの落とし穴 [政治・社会]

政府と日銀が2%に物価目標を確認して無期限の金融緩和に動き出した。だが、これにはいくつかの落とし穴があるといわなければならない。


まず、金融緩和政策は日銀→銀行→企業→賃金・雇用というお金の流れを描いているが、銀行にはすでに過剰資金が滞留している。その原因は企業からの資金需要が低迷しているためで、ダブついた資金はかつてのように株や不動産へと運用されマネーゲームが再来しかねないという(山口立教大教授、1月14日、NHKラジオ)

仮に、企業まで順当にお金が出回ったとしても果たして雇用や賃金の改善に連動していくかというとこれまたその可能性は極めて低い。なぜかというと、過去もそうだったが、企業は業績が上向いても将来不安から内部留保に回り賃金・雇用を改善しないからである。今年の春闘をみてもアベノミクスと経団連の姿勢は逆方向を向いている。


そもそも、現下のデフレは内需の低下に起因するものである。物が売れない→価格引き下げ→賃金引下げ→物が売れない→価格引き下げという悪循環から抜け出せない。個々の企業は生き残りをかけてリストラ・賃下げに精を出す。どこも同じようなことをするので結局消費は伸びず、需要が停滞する。合成の誤謬である。ここを解決しなければいくら日銀がお金を流しても効果は期待できないだろう。


賃金は1997年を100とすると15%も減ってしまった。そればかりか年収200万円以下の働く貧困層は1000万人に迫る。なお増え続けている。雇用不安定な非正規労働者は全雇用者数の35%を超えている。それでも何とか生活しているのはデフレ=物価の下落だからである。


デフレ脱却に内需の6割を占める個人消費の拡大が大前提である。そのためには、現役世代、特に若者には正規雇用の場をつくり、普通に暮らしていける最低限の所得を確保しなくてはならない。普通に食べて、たまには外食できる。そして普通に家庭を持ち、子供を産み育てる。いずれは、車も買って、マイホームにも手が届く。この普通の人生設計が若い現役世代に難しくなっている。いつ解雇になるかわからないよううな雇用環境では将来生活に安心感が生まれない。


雇用の安定と賃金の改善はまず第一義的には企業経営者の発想の転換が必要だろう。とにかくリストラすることしか頭にない経営者こそデフレ要因といわなければならない。大企業の内部留保の総額は260兆円との試算もある。仮にこの1%分2.6兆円を原資にすると、賃上げでは月1万円として約2100万人可能だ。雇用ででは年収300万として約90万人増やせる計算だ。


雇用と賃金の改善がなければ、物価を上げれば経済が良くなるというシナリオは成り立たない。景気が良くなる、経済がよくなるということはつまるところ庶民の懐具合なのだ。


「デフレの正体」(岩波新書)の著者・藻谷浩介氏は「生産年齢人口減少に伴う内需の縮小」をデフレから脱却できない構造的問題であると指摘しているが、そのように問題を設定するとこれから先、成長というようなことがどれだけ可能なのであろうか。アベノミクスへの期待が失望に変わるのはそう長くはかからないかもしれない。

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