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小沢代表の発信力 [政治・社会]

今日の毎日新聞「記者の目・総選挙前の小沢代表交代には反対」は、「辞任すべき」に偏っていた報道各社の代表進退問題の論調のバランスをとった格好といえそうだ。

書いた政治部の渡辺記者は小沢の担当記者で1年半密着し続け小沢代表の「政権交代にかける思いは本物と確信」したという。ただ、記者会見が少なく、もっと表にでて国民に献金問題について語りかけるべきと注文はつけている。

また、今朝の朝刊では鉢呂民主党道連代表が昨日の会合での「衆議院選挙は小沢代表で」と語った記事や17日の「プレス民主」に新党日本・田中代表が寄稿した「小沢擁護論」の紹介も報道のバランスがスクエアになりつつある兆候かもしれない。

一方、辞任を促す学者・評論家は増える一方である。しかも、彼らはいずれも民主党に親近感をもつ方々だけに頭の痛いところである。

金子勝慶大教授は逮捕された週の「サンデーモーニング」ですぐに辞任論をぶっていたし、山口二郎北大教授も「週間金曜日」や「朝日新聞」で代表交代を主張、政治評論家森田実氏も自身のブログでかなり強い口調で連日辞任論を展開している。

なかでも、ロッキード事件の著書がある立花隆は、逮捕の次週の「朝ズバ」に生出演、検察権力との闘争と政権交代の闘争を分離せよと強調し、大方の辞任論の論拠となっているように思う。

「AERA」の最新号では美尚中も「短刀直入に申し上げたい。小沢一郎さん、民主党代表をお辞めになってはいかがでしょうか。一日も早く、さらりと退く。それが歴史に名を残せる最後の花道だと思います」と書いている。

さて、世論調査はどうかというと、12日の毎日の調査では「小沢辞任を」は72%。「首相にふさわしいのは?」は麻生21、小沢12で前回調査が逆転、しかし、「次の総選挙で勝ってほしい」自民32、民主42と民主党への期待と小沢代表への期待がミスマッチを引き起こしている。

世論はマスコミに左右される場合が多い。そのマスコミは検察を含む官公庁情報に左右されやすい。その世論とマスコミと挌闘しながら間近に迫る衆議院選挙で勝たなければならない。

民主党が世論に向かって何を発信するのか、激しく問われている。毎日の渡辺記者が言うように小沢代表の政権交代にかける思いをもっとオープンに語ってもらいたい。


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コミュニティオーガナイザー [政治・社会]

オバマ新大統領が就任した。ここ数日はどこのテレビも新聞もブログもこの話題でびっしりだ。

昨年の大統領選挙の勝利演説に比べるとやや感動めいたものを感じなかったが、それでも、彼の熱い思いが伝わる抜群の就任演説だった。

ところで、昨晩の「クローズアップ現代」で、彼のもとには「コミュニティ・オーガナイザー」という人々が集っていることを識った。

地域活動家と訳せばいいのか、住民組織家というのだろうか。その数全米で1300万人。大統領選挙に立ち上がった頃から増え続け、彼とはメールやyoutubeで繋がっているという。その多くは、これまで政治に無関心だった20歳代の若者で、彼の演説に感動して、活動をはじめたたのだという。

彼は演説が上手いだけではなく、これだけ多くの人間を巻き込み、感動した人々がさらに草の根で地域のなかで実際に活動を展開しているのだ。

彼が黒人出身であるとかシカゴの貧民街でボランティアをしていたという経歴以上に、現在もこうした双方向性の繋がりが、一層彼の話に厚みを与えているのだと思う。

番組では、アメリカ国民の6人に1には医療保険に加入していない問題をとりあげていた。コミュニティオーガナイザーが貧困地域に入り、深刻なアメリカの医療の実態(まさに「シッコ SiCKO」のような)をオバマ大統領に押しあげているに違いない。


ふりかえって、日本の政治家はどうだろう。一人の政治家の呼びかけで何人の人間が行動できるだろうか。
政治家はもっと発信力を高め、周りに手弁当で活動する「オーガナイザー」を結集しなければ、日本を変える民衆のエネルギーは爆発しないだろう。


新自由主義との決別 [政治・社会]

謹賀新年。本年も大学村の森の日日をよろしくお願いいたします。

さて、なんとも煮え切らない妙な雰囲気のまま年を超したような気がしてならない。調査によっては国民の8割が解散、政権交代を望んでいるのに解散しない、できない麻生内閣。

しかも、アメリカを震源とする経済不況が津波のように日本を襲い、東京・日比谷公園には「派遣村」が出現するという異常事態に、麻生内閣はなんら対策を講じることなく国会は幕を閉じた。国会が多数の民意を反映しないまま時間だけは経過してゆく。

そんな折、興味深かったのは天皇陛下が誕生日と新年参賀で、正確ではないかもしれないが「厳しい経済状況で苦労多く新年を迎え(てい)る人が多いのではないかと案じている」というような趣旨のことを述べたことだ。

天皇は戦後憲法で象徴となり、政治的行為を禁じられている。これはおそらく宮内庁の作文ではなく自身の思いを言葉にしたのではないだろうかと思ってしまう。政治的な立場にありながら、完全に想像力を失いつつある政治的トップたる麻生総理と対照的な出来事だった。


もうひとつの妙な雰囲気は、というより憤慨したのは、元旦夜のNHKスペシャルに竹中平蔵氏が登場、これからの日本をどうするかについて相変わらずの能弁ぶりを発揮したことだった。

番組で、彼は「政策は現実から」とか「リアリティを重視」などと強弁し続けた。しかし、この津波のような現実を巻き起こしたのはいったい誰なのだ。これからを語る前にまず自己批判からはじめるべきだろう。

この種のNHKの番組はいつも両論併記の形で終わるのだが、今回はどうみても軸は竹中氏という印象。対抗して出演した金子勝教授や山口二郎教授も遠慮がちだった。斉藤貴男氏だけがかみついて、彼の現実論を論駁していた。

暮れから新年にかけてはイスラエル軍がパレスチナ自治区への戦闘を開始、多くの市民を巻き込んだ。戦闘は最大の消費と需要をもたらす景気対策といえる。過去の戦争は経済的な行き詰まりを打開する政治的政策選択だった。

戦争反対論は非現実的として排除され戦火は拡大、多くの尊い命が奪われた歴史はそんなに昔の話ではない。戦争を二度と起こさない非戦の思想と貧困と格差の現実に立脚した新自由主義に決別する理論的な政治経済政策論の探求が急がれる。




「拉致」と「慰安婦」問題 [政治・社会]

少々、古い情報で申し訳ないが、昨年の3月24日付けのワシントン・ポスト紙の「安倍首相のダブスタ発言」と題した社説=下記に全文=をとりあげたい。

「拉致」の解決にとって、日本のマスコミが報道しない核心的な主張が散見されるので、紹介しておきたいと思うからだ。

要約すると「社説」は、日本政府が拉致の解決を北朝鮮にもとめるなら、それと比べても証拠が劣らない従軍「慰安婦」問題に関して、政府としての責任を認め、謝罪と補償を行うべきだ、というもの。

つまり、「拉致」も「慰安婦」問題も、人を騙して、誘拐して、あるいは強制的に連行していった、という点で、重大な人権侵害であり、同義語なのだと、この「社説」は言いたいのだと思う。

日本で「拉致」の問題を論じる場合、そのほとんどは「対北朝鮮」というアングルでしかみないように思える。

しかし、「拉致」問題は従軍「慰安婦」問題だというのが、日本のもっとも「良き理解者」であるはずの米国の世論とはなんとも皮肉な話である。おそらく、韓国も中国も同じ見方であろう。

それから、4月後の7月30日、米国下院で、従軍「慰安婦」問題に対する決議案が可決された。それからオランダ、カナダ、そして欧州議会でも同様の決議が採択されている。

「慰安婦」問題の解決なくして、「拉致」問題の前進はないように思う。



ワシントンポスト 2007年3月24日社説

■安倍首相のダブスタ発言 (原題:"Shinzo Abe's Double Talk")

北朝鮮問題をめぐる六者協議で、今週一番タフだったのは、ブッシュ政権ではなかった。 ブッシュ政権は、北朝鮮の要求する2500万ドルの預金を送金するため四苦八苦していた のだ。一番タフだったの日本であった。

日本政府は、数十年前に北朝鮮が拉致したとされる17人の日本人についての情報を提供するよう北朝鮮に要求しており、回答がある までは関係改善協議を一切拒否するとしている。

こうした強硬な政策は安倍首相の倫理 重視主義を反映するものだ。安倍首相はこれまでも、国内での支持率低下を回復させる ために日本人拉致被害者(その中には13歳で拉致されたとされる少女もいる)を利用して きた。

安倍首相が北朝鮮側の非協力的態度を批判すること自体は当然のことだ。しかし、第二 次大戦中に日本が何十万人もの女性を強制連行・強姦してセックス奴隷にしたことに対 する日本の責任を認める立場を後退させる動きを、これと並行して安倍首相が見せているのは、奇怪であり人を不快にさせるものだ。

アメリカ下院で、日本の公式謝罪を求める 決議案が審議中であることに対して、安倍首相は今月2度にわたり声明を出し、日本軍が強制連行に関与したことを裏付ける文書は存在しないと主張した。

先週末に出された 閣議決定は、いわゆる慰安婦に対する日本の残虐な扱いを認めた1993年の官房長官 談話を後退させるものであった。

この問題についての歴史的記録は、北朝鮮が日本人(うち何人かは教師や翻訳者にされた)を拉致したという証拠と比べて、説得力において劣るものではない。

歴史研究者らによれば、朝鮮・中国・フィリピンなどアジア各国で奴隷化された女性は20万人にも及ぶ。強制連行には日本兵らが関与したという。多くの生存者が、自らの恐ろしい体験を証言している。

その中には、先ごろアメリカ下院で証言した3人の女性も含まれる。日本政府が、彼女たちの被害に対する責任を完全に認めて補償したことが今まで一度もない というのは、悪いことだ。

そして、従来の談話の立場を安倍首相が後退させているのは、主要民主主義国家の指導者としては恥ずべきことだ。

安倍首相はもしかすると、強制連行に日本政府が直接関与したのを否認することが、北朝鮮に回答を要求するにあたっての日本の倫理的立場を強化すると思っているかもしれない。

しかし、それは大間違いだ。日本人拉致被害者に関する情報を得るための国際的支援を欲しているのであれば、安倍首相は日本自身が犯した罪についての責任を率直に認め、自分が中傷してきた被害者たちに対して謝罪すべきである。

市場と人間 [政治・社会]

市場にこれほど人間生活が脅かされ、翻弄されたことがあったろうか。

市場は経済といいかえてもいい。本来は、人間生活を豊かにするのが経済の役割ではないのか。市場や経済というのはもともと人間に従属すべきなのだと思う。

もっといえば、より人間生活の幸福を追求するために人々はより高度の生産技術と経済社会をたえず生みだしてきたのではなかったか。

しかし、それがどうだろう。まったく市場の行き過ぎを咎めることができないでおろおろしている。

モノに人が縛られている。倒錯した社会となってしまった。まさにチャップリンの映画のようである。市場原理が妖怪となって彷徨っているかのようである。

東西冷戦の時代、世界経済は政治的な障壁が西側の自由な市場を規制していたが、冷戦の崩壊とともに、一気に経済のグローバル化が進んだ。

とともに、西側諸国内でも同様の障壁の除去・緩和が進み、冷戦時代に企業とその政府からの妥協として培った福祉、医療、環境保護そして労働者保護政策が次々と緩和された。

市場=資本はもともと一人歩きする性質・法則をもっている。自己増殖を目的としてアメーバの如く世界を駆け巡る。だから本来的に無慈悲である。

この非人間的なそして止むことない搾取と横暴、貪欲な利潤の追求。この市場原理と資本の論理に今の政治がなんと無力なことか。あきれるばかりである。むしろ、助長しているようにさえ思える。

だから政治と政府の役割が大変重い。

少なくとも、この原理にNOを突きつけ、民主主義のルールを確立するのは他ならぬ人間による市場経済への介入ということになろう。

これからは人間が市場を支配する時代だ。

通り魔事件とゆとり [政治・社会]

どうしてこんな事件が起きてしまうのだろう、悶々としていたところ、さきほどのNHKラジオで視聴者の「声」が紹介されていた。

正確ではないけれど「容疑者のまわりに一人でも彼の悩みの相談にのってやれる人がいれば、こんな事件にはならなかったのではないでしょうか」という趣旨だったと思う。

彼は、職場でつなぎの作業着がなくなったことで解雇と勘違いしたとの報道もあるが、こんな話、そんなに深い関係でなくても職場の同僚にでも聞けばすぐわかる話しだからだ。

彼はネット上に「友達」を求めたのだが、その掲示板は皮肉にも「友達できない」というタイトル。すでに自虐的になってしまっている様子を感じる。

「友達できない」同士になかに「彼女」が現れるが「彼女」からも見放されたと思い込み、いよいよ孤独感に苛まれ、自分自身を疎外していく過程がニュースから読み取れる。

人間にとって友達がいないことほど辛いものはないだろうと思う。一人でいいのだ。たくさんいなくてもいい。しかも、その友達はネット上ではなく、会って対話のできる、できれば酒でも飲みながら話せる仲間が必要だった。

そんな、友達が一人いれば、おそらく彼を通り魔殺人事件に追いやることもなかっただろうと考えてしまう。


人間は確かに孤独であるし、最終的には自分ひとりだけれど、現実的には直接的に間接的に実に多くの人間に助けられて成長していくものだと思う。決してひとりで生きていけるような存在ではないのだ。

人が人を助けていく、支えていく、気遣える「ゆとり」が職場から消えつつあるのではないか。人間関係が希薄となり、バッシングや差別・競争が目立ち始めている。

簡素で効率的なことはいいことだが、車のハンドルに遊びが必要なように、一見無駄に見えても「ゆとり」のない職場も危うさを抱えていることを見逃すべきではないと思う。

貧困は自己責任ではない=「反貧困」を読む [政治・社会]

湯浅誠著「反貧困」(岩波新書)を読んだ。

少し前までには新聞紙上にさえ踊ることはなかった言葉「貧困」。いったい「貧困」とは何か。

この本は「貧困」を「自己責任」の呪縛から解放し、社会問題として定義し、サブタイトルにある「すべり台社会からの脱出」を呼びかける。

この本を一貫して流れる思想は「溜め」という考え方である。「溜め」とは「溜池」のことで、日照りになっても田畑に潤いを供給するいわば「セーフティネット」といいかえてもいいと思うが、奥はもっと深い気がしている。

特に第3章「貧困は自己責任なのか」はできれば輪読して討議してみたいものだ。

この章で湯浅氏は「貧困」を「5つの排除」として次のように定義している。

①教育課程からの排除(親の世代の貧困)

②企業福祉からの排除(非正規雇用で雇用保険にも入れない)

③家族福祉からの排除(頼れる親、兄弟がいない)

④公的福祉からの排除(生活保護申請しても追い返される)

⑤自分自身からの排除(自殺。生きる意味を見失う)

最後の⑤は「自分のせい」という自己責任論で自分自身を追い詰め自分を大切にしない心理状態のことだ。

現在、セーフティネットで言えばまず雇用保険、社会保険そして生活保護の制度に支えられている場合、あるいは家族に支えられている場合は「溜め」がある状態といえるわけで、逆にそれらから排除されると「溜め」が失われ、最後の砦である自分自身を失う。

ここで大事はことは、「貧困」はこのいずれかから排除された人間の視線で見えてくるものであり、国や為政者に見えにくいものだし、むしろ認めたくないいう点である。

多くの人々はこうしたネットの上で暮らしているので、ここからすべり落ちた人に対しては「自己責任論」を展開するというのが世間の大体の常識となってしまっている。

だが、よくよく考えてみると、自己責任論が成立するには「スタートラインはみな同じ」でなければならい。しかし、このことは一種の「神話」であり観念の世界の話であって、現実はまったく不平等なバランスを欠いた社会なのだということは誰にでも理解できる。

失業しても頼れる親がある人とない人では、話は違ってくる。親が膨大な学費を投じてくれれば大学にも通える。いよいよ困って生活保護を申請しても「働け、働ける」で追いかえされる。

だから「溜め」のある人と「溜め」を失っている人を同列に置いて「自己責任」を論ずることは妥当ではない。

湯浅氏がこうもいう。「自己責任」は「選択肢は等しく選べたはずいという前提で成立するもので、一方貧困は「選択肢は等しく選べない」という状態なので「両者は相容れない」

またこう指摘する。「貧困」は隠されている。サミットなど国際イベントがあるとその地域の野宿者を排除する。保育料、学校給食費、医療費が払えない人が出ると本人が払おうとしないことが強調され、背後の「貧困」問題が隠される。

姿が見えない、実態が見えない、問題が見えない、そのことが自己責任を許す。だから一層社会問題化せず、自己責任を誘発する悪循環を生んでいるというのである。


政府統計でも、生活保護世帯は100万世帯151万に達するが、制度を知らない人や「追い返される人」も多い。また、年収200万以下の層は1000万人を超える。

湯浅氏は「貧困は人の問題ではなく社会の問題」と強調する。あらゆるものを市場化する新自由主義に警鐘を鳴らし、「溜め」の根付いた社会の制度設計を呼びかけている。

なんども読み返したい本である。



















「混乱」の深層 [政治・社会]

ガソリンの暫定税率が3月末に期限切れとなり、25.1円引き下がる。満タンにすると約1000円前後浮く計算だ。外食一回分である。われわれ庶民にとってこれは大いに歓迎すべきことであろう。

福田首相は、口を開けば「混乱」「混乱」と野党を批判するけれども、混乱しているとすれば野党の主張に歩み寄らない、妥協という民主主義の基本を忘れた自民党の責任が大きい。

戦後日本の政治のほとんどの時期を政権政党として君臨してきたこの驕りと惰性、そして強行採決にみられる独善、これこそが混乱の原因といっていい。

60日規定やそして3分の2再議決も強行採決と同義語である。国会で何を議論しても、同じ回答の繰り返しで、なにも歩み寄らない、妥協しないのは、いずれ数の力で自民党の主張が通るとたかをくくっているからではないのか。

こうした態様に成熟した民主主義的な政治の姿を読み取ることは不可能だ。自民党の一党支配体制そのものである。どこかの国の閉鎖的な政治風景とちっともかわらない。国会は単なるお喋りの場ではないのだ。

福田・自民党は、真の意味で「ねじれ国会」という状況を理解していないというしかない。民主党が最後まで暫定税率の引き下げを譲らないとは想像していなかったのではないか。どこかで妥協してくると勘ぐっていたのだ。

55年体制下の「自社」の政治駆け引きとは根本的に異なる政治状況が現出しているのが今日である。

予算案意外のあらゆる法案は野党との妥協なくして成立しない時代に入った。福田自民党内閣にはこの点の認識が異常に希薄であり、旧態依然のその場しのぎの「新提案」ではなにも解決しない。

そんなに「混乱」「混乱」と騒ぐのなら、さっさと野党に妥協して財源不足対策や業界対策をすればよかっただけの話である。下げることが「混乱」というなら、暫定税率は未来永劫下げることができない恒久法となってしまう。なんとも馬鹿げた話である。

解散総選挙こそ「ねじれ」解消の一番の近道である。「大連立」「与野党協議会」などという密室的な手法には賛成しかねる。政権交代こそ成熟した民主政治の姿である。福田内閣は直ちに総辞職・解散総選挙を実施すべきである。

日本の民主主義はまず自民党を下野させるところからはじまる。「混乱」はその序章に過ぎない。




サラリーマン川柳 [政治・社会]

第一生命恒例のサラリーマン川柳傑作100選が発表となった。
http://event.dai-ichi-life.co.jp/senryu/

思わず、噴出すやら、膝を叩くやら、いつもながら納得するものばかり。

たとえば、

●「空気読め!!」 それより部下の 気持ち読め!!

確かに、いっている上司こそ。

●「今帰る」 妻から返信 「まだいいよ」

我が家もそうだなあ。

●チャンネル権 取られてケイタイ ワンセグに

家のテレビは、妻と子供の専用になっている。なので、ワンセグにする人も多いわけか。

●お給料 毎年あがるは 控除額
確かに、給料はここ数年ちっとも上がらない。なのに、税金は上がるし、各種掛金も上がっている。

●一回で 満タンためらう 給油かな

ガソリンや灯油の消費量が落ち込んでいるという。若干下がり始めたけど、まだまだ「ためらう」状態。

あと、こんなのも。

●日替の 謝罪会見 今日はどこ?
●「忙しい」 言いつつ向かうは 喫煙所
●社長より 現場を良く知る アルバイト


ガソリン税の引き下げと自治体財政 [政治・社会]

ガソリン税の暫定税率を今後も維持するのか廃止するのか、ガソリンは1円でも安い方がいいに決まっているが、なかなかこの問題は根が深い。

揮発油税、つまりガソリンを入れるたびにかかるリッターあたり約50円の税金。この税率の本則約24円が決められたのが1954(昭和29)年、今から54年前。これに約倍の暫定税、が決まったのがそれからちょうど29年後の74(昭和49)年である。

田中角栄が日本列島改造計画をもちだし、全国津々浦々に道路が建設され整備されていくことになった。それからすでに34年、道路は当時と比べ物にならないくらい立派になった。

どんな田舎道も埃の立つ砂利道を車で走ることはない。もちろん、まだまだ整備が必要な道路が道内でも多くあることはいうまでもない。

道路が立派なのはもちろん、この道路特定財源、とりわけ暫定税率のお陰なのだが、問題はまず第一に政府与党がいうように、今後もこの倍の「暫定税率」を10年も維持しなければならないのかどかという点が議論されなければならないと思う。

つまり、道路をどこまでつくるのか。自治体にとってもっと優先すべき行政サービスの分野があるのではないか、限られた財源をどう有効に活用すのるか、といった自治体政策上の議論が深められなければならない。単に、ガソリン税を維持するかしないかという問題だけではないということである。

次に、廃止された場合、自治体財政にどれほどの影響がつまり財源不足が生じるかということをきっちっと把握しておくことが重要となる。

自治体の予算編成は、すでに来年度のこの道路財源を見込んで編成しているので、仮に年度末で廃止されると、直ちに自治体予算はその前提が崩れ大混乱してしまう。

地方への道路財源は、新規のみならず、その維持管理、除雪そして道路建設にともなう借金の返済にまでも使われている。この収入が見込めないとなるとその財源を他から充当しなければならない。

道路特定財源は、総額5.6兆円、内地方分は2.2兆円。暫定税率分は国、1.7兆円、地方1.0兆円となっている。

この地方分が前述のような使用状況にあるのだが、逢坂誠二衆議院議員によれば、民主党は自治体財政には1円の迷惑もかけないように現在ミクロの代替案を検討して、近々国会に法案として提出する予定という。

マスコミは、「ガソリン国会」などと面白おかしく書き立てているが、民主党の基本的な姿勢は、まず、この不透明な道路特定財源の一般財源化にある。詳しくは、以下の民主のウエブサイトを参照していただきたい。
http://www.dpj.or.jp/news/dpjnews.cgi?indication=dp&num=12440

つまり、自治体が自由に使える財源に切り替え、その上で暫定税率を廃止する。結果としてガソリンが約25円程度安くなるということなのだ。これは、地方分権一括法以来の大改革につながる提案ともいえる。置き去りにされた地方税財源のありかたを根本から変えていく。

そこで、この自治体分2.2兆円の民主党の代替案は、今のところ、①国の直轄事業負担金の廃止=約1兆円、②道路財源の余剰金=約1兆円、③株の譲渡への課税=6000億円という内訳で「マクロ」であるけれど、具体的な検討が進んでいると逢坂議員は説明する。

さて、次の問題は国会情勢である。政府与党が譲歩せず、3月末までに、この暫定税率維持を盛り込んだ租税特別措置法案が成立しないと、4月1日午前零時をもって暫定税率が失効してしまうことになる。

すると、消費者はガソリンが直ちに25円安くなるので歓迎なのだが、自治体財政は、前述のような大混乱となる。これは最悪のシナリオといわなければならない。

「60日ルール」といわれるように、テロ特と同じように参院へ法案が送られ60日が経過すると否決したものとみなすという憲法の規定があり、今度は、衆議院で3分の2以上の賛成がないと成立しない。

この奥の手を再び使うのか、使うとしても4月1日を越えてはいけないと与党は考えている。

民主党が衆院でも多数であれば、道路財源は一般財源化され、それこそ地方には交付税としてこれまでの道路財源相当分が交付されてくる。

しかし、現実は民主党が政権を担っているわけではない。「ねじれ」国会である。道路財源にかかわる関係法案だけを分離して議論できればいいが、そんな土俵に与党が乗るとも考えにくい。

民主党は、この問題をガソリン税の25円問題に矮小化することなく、地方分権一括法以来の財政分権改革ととらえ、しっかり代替案をミクロに詰めて、早期に国会へ法案として提出、世論に訴えるべきだろう。この作業はまごまごしていられない。

急を要する

結局のところ、のちのち「ガソリン税解散」といわれるような解散総選挙を実施し、政権の交代を実現することがなによりの「代替案」かもしれない。道路特定財源への民意を問うのだ。自治体にとっても一番わかりやすい。


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